端午の節句


<端午の節句(こどもの日)とは 3-1>


5月5日は、現在ではこどもの日とされていますが、もともとは端午の節句。男の子がたくましく健やかに育つことを願う行事です。

端午というのは月の初めの午の日、という意味で、古来中国では5月5日は病気や災厄を祓う、節句の日でした。その行事と、日本で厄除けとして野草である蓬を摘んだり、菖蒲酒を飲んで邪気を祓う行事が結びついたです。

鯉のぼりを掲げ、かぶとや武者人形を飾り、ちまきや縁起物とされる柏餅を食べて祝います。


出典: キノギフト



<端午の節句(こどもの日)とは 3-2>


5月5日(旧暦でも5月5日)


男の子の成長と立身出世を祈る


端午とは「月初めの午の日」の意味。


午は五と音が同じことから、古代中国には特に5月5日を端午として、邪気を祓う行事がありました。


日本では5月は、田植えを始める前に女性たちが家にこもって身を清める時期とされていました。


この風習が中国の行事と結びつき、菖蒲やよもぎを軒につるしたり、菖蒲湯に入るなどの習わしが生まれたといわれます。


江戸時代には、菖蒲が「尚武」「勝負」に通じるとして、男の子の立身出世を願う行事となり、兜などの武器を飾り、のぼりや吹流しを立てるようになりました。


これが庶民にも広まって、現在も続く、端午の節句となりました。


出典: ワイドバラエティー



<端午の節句(こどもの日)とは 3-3>

 

端午の節句とは?その意味や由来!


5月5日は、「こどもの日」。子供達にとっては、新学期が始まってすぐの長い休みであるゴールデンウィークの一日として捉えている場合が多いようですが、国民の祝日であるこの日は、本来「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」のが主旨とされています。


また、こどもの日は1948年に制定されたもので、それまでは「端午の節句」という呼ばれ方が一般的でした。


端午の節句とは、季節の節目を祝う日本の伝統的な式日である五節句の中の一つに数えられており、江戸時代に法制化されています。

 



端午の節句は五節句の一つで、日本では奈良時代から伝わる風習です。


端午の端は月の端(はし)で始まりという意味です。すなわち端午とは、月の始めの牛の日のことを言い、必ずしも5月に行われる行事ではありませんでした。


しかし、牛(ご)が五(ご)に通じることから毎月5日を指すようになり、さらに5が重なる5月5日を端午の節句と呼ぶようになりました。


また端午の節句は、日本では元々女性が行っていたと言われています。


田植えの時期である5月になると、稲の神様に豊穣を祈願するため早乙女と呼ばれる若い娘達が小屋や神社に籠って田植えの前に穢れを祓う「五月忌み」という風習が行われていました。


古くから邪気祓いの力があるとされていた菖蒲と薬草の蓬(よもぎ)を軒に挿すことで、厄災を祓って穢れを浄化できると考えられていたのです。


これが、中国から伝来した端午と結びつき、端午の節句となりました。


しかし、鎌倉時代になると宮廷で長らく行われていた端午の節句は廃れを見せてきました。その一方、菖蒲が武道を重んじるという意味の「尚武」と同じ読み方であることから、武士の間では縁起がよいと盛んに行われるようになります。


そして、江戸時代になると幕府が端午の節句を公的な行事として定め、武士以外の庶民にも広く普及をし始めます。


その際、端午の節句は武士の流れを汲み、男の子の誕生や成長を祝う行事として認識されていったと言われています。


出典: 豆知識Press

 

 


♦詳細

<由来 2-1>

今から約2,300年前の中国(当時は楚の国)に、屈原という国王の側近がいました。


正義感が強く情に厚かった屈原は大変人望を集めていたのですが、陰謀によって失脚し国を追われることとなってしまうのですが、深く失望した屈原は5月5日に汨羅(べきら)江に身を投げてしまったのです。


屈原を慕っていた楚の国民達は、太鼓を打って魚を脅かし、ちまきを川に投げ込んで屈原の遺体が魚に食べられないようにしました。


また、中国では昔から5月(旧暦)の時期は病気が流行し亡くなる人が多かったことから、5月は悪月、5日は5が重なることから悪日として、厄除けに菖蒲や蓬を門に挿し、菖蒲を浸した酒を飲んで厄除けや健康祈願をしていました。


このような風習が奈良時代に日本に伝わり、やがて日本独自の端午の節句の風習が生まれていきました。すなわち、端午の節句とは元は中国から伝わったものだったのです。


出典: 豆知識Press



<由来 2-2>

端午の節句は「屈原・くつげん」のお話から始まる・・・・・・・


 ◆中国の戦国時代というから、今から約2300年前のお話です。


・楚(そ)の国の国王の側近に、屈原(くつげん)(前340頃~前278頃)という政治家がいました。

詩人でもあった彼はその正義感と国を思う情は強く、人々の信望を集めていました。


しかし、屈原は陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。

その時の想いを歌った長編叙事詩「離騒(りそう)」は中国文学史上、不朽の名作と言われています。


故国の行く末に失望した屈原は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。


・楚 の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし,さらにちまきを投げて,「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。

その日が中国の年中行事になり,へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事が生まれたそうです。


・これは今日のドラゴンレース(龍舟比賽)の始 まりとも言われています。


・これがちまき(肉粽=ローツ ォン)の起源です。このようなエピソードから、毎年命日の5月5日の屈原の供養のために祭が行なわれるようになり、やがて中国全体に広がっていったのです。


 国と人民に尽くした屈原の政策は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて国の安泰を祈願する風習に変わって行きます。


・そして、その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われています。三国志の時代に端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行きました。


◆ところで、歴史の上ではどちらかと言えば些細なこの事件が、このように盛大な祭に発展していったのでしょうか?それは、次のような理由だと言われています。


・急に暑くなるこの時期は、昔から病気にかかりやすく、亡くなる人が多かったそうです。

その為、5月を『毒月』と呼び、厄除け・毒除けをする意味で菖蒲やヨモギ・ガジュマロの葉を門に刺し、 薬用酒や肉粽を飲食して健康増進を祈願します。


・人々の生きるための切実な思いによるものが、端午の節句が生まれた理由なのでしょう、。


出典: 人形のこうげつ



<端午の節句と初節句について>


端午の節句は、五が重なることから「重五(ちょうご)の節句」と呼ばれたり、邪気を祓うために菖蒲を飾ったり菖蒲酒を飲むことから「菖蒲(尚武)の節句」とも言われます。


日本では元は女性が行っていた神事でしたが、菖蒲が尚武に通じることから、たくましく成長することを願い男の子の行事として現在は定着しています。


また、誕生後初めて行われる節句を初節句と言い、身内(両親や祖父母)でお祝いを行います。


初節句に合わせて、祖父母から「鯉のぼり」や「鎧兜」「五月人形」などが贈られますが、地域によって「母側の両親が贈る」ところと「父側の両親が贈る」ところで分かれているようで、最近では母方父方の両親が共にお祝い金を包み、それを合わせた分で男の子の両親が購入するというケースも多いようです。


出典: 豆知識Press



<なぜ、端午の節句に「鯉のぼり」を上げるの?>


鯉のぼりは、「黄河の急流に竜門と呼ばれる滝があり、その滝を登ろうと多くの魚が試みたものの登れたのは鯉だけで、登り切った鯉は竜になった」という中国の故事が元となっており、男の子の出世を願う意味があります。


また、鯉は清流に限らず環境がよいとは言えない池や沼でも生きていける生命力の強い魚で、祝い事に鯉を食べる習慣もこの生命力の強さを頂く、という意味もあるそうです。


このようなところから、どのような劣悪な環境においても生き抜くことができるたくましさを備え、立派に成長して欲しいという意味があるのです。


さらに、元々武士の家では男の子が生まれると家紋の入った旗や幟(のぼり)を上げる風習があり、これに対して庶民は幟に縁起物の鯉を描いて掲げていました。これがやがて、中国の故事と結びつき滝を登る鯉のように、鯉のぼりが揚げられるようになったのです。


出典: 豆知識Press



<やはり端午の節句には兜や鎧の五月人形を飾ったほうが良いの?>


端午の節句に飾る鎧兜は、将軍や武将によって行われていた風習が元となっています。


自身の身を守る鎧や兜は、命を守る道具の象徴として考えられており、男の子が生まれるとその子に身の危険が及ばず安全に暮らせるようにと、鎧や兜を飾るようになったのです。


また、五月人形は主体となる人形のような人物に成長して欲しいという願いが込められています。


このような由来を考えると、男の子が誕生したら鎧兜や五月人形を飾って、健やかな成長や健康を願いたいものですよね。


出典: 豆知識Press



<端午の節句に「ちまきや柏餅」は定番?食べ物の意味は?>


柏餅に使われる柏は、古くから神が宿る木とされています。神社や神棚で神に拝する際にパンパンと音が鳴るように手の平を合わせる行為を、柏手(かしわて)と呼ぶのもここから来ています。


また、柏の木は新芽が出ないと古い葉が落ちないため、子孫繁栄を象徴するものとして縁起がよいとされています。


これらの理由から、端午の節句には柏餅が食べられるようになったそうです。


粽(ちまき)については、屈原の霊が川のほとりに立ち「供え物を捧げてくれるのは有り難いが、悪龍に盗まれてしまう。そこで悪龍が嫌いな楝樹の葉で餅を包んだものを五色の糸で縛って欲しい」と里の人に頼んだという逸話が元となっています。


出典: 豆知識Press



♦豆知識

<過ごし方・お祝いの仕方>

・五月人形・鯉のぼりを飾る。 ※4月の中旬までに飾りましょう。

・柏餅・粽をいただく。

・菖蒲湯に入る。

・初節句の場合は、両家の祖父母を招いてお祝いをする。  

 

※お祝いの仕方は、それぞれの家、地方によって異なります。

また、このようにお祝いをしないといけないというものではありませんので、これらを参考に、楽しく過ごしてください。


出典: 日本の行事・暦 



<端午が男の子の節句になった訳は?>


古来おこなわれていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。しかし、武士のあいだでは尚武(武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。


やがて江戸時代にはいると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝いました。


このような時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへと結びついていったと考えられます。やがてこの風習は武士だけでなく、広く一般の人々にまで広まっていきます。はじめは、玄関前に幟や吹き流しを立てていたものが、やがて厚紙で作った兜や人形、また紙や布に書いた武者絵なども飾るようになっていったのです。さらに江戸時代の中期には、武家の幟に対抗して、町人の間では鯉のぼりが飾られるようになりました。


<五色の吹流しと鯉のぼりの関係は?>

「五色」(ごしき)は、古代中国の「五行説」(ごぎょうせつ)に由来しています。万物は、木・火・土・金・水の五つの要素で形成されているとの考え方です。


・木は青・火は赤・土は黄・金は白・水は黒を表現しています。


・以上は神道の思想によるものですが、仏教でも五色は重要な意味を持っているようです。



<吹流しと鯉のぼりの関係は?>

・端午の節句に、武家が旗指物や吹流しを飾ったのに対抗して、町家が鯉のぼりを掲げたとの説もあります。


・黒の真鯉がお父さん、赤い緋鯉がお母さん、青や緑は子供たち。


・五色の吹流しは、幼子の無事な成長を願って「魔よけ」の意味で飾られました。カラカラと回る矢車も同様な意味をもっています。吹流しは家を象徴しているとも考えられます。


出典: 人形のこうげつ



<花菖蒲と菖蒲>


「菖蒲」というと、一般的に花菖蒲をさし、五月人形のそばに飾るのはこの花です。


アヤメ科で、紫や赤紫色の大きな花を咲かせます。


一方、菖蒲湯に使う菖蒲はサトイモ科の植物。


花は蒲の穂のように細長く地味ですが、葉に独特の芳香があります。


この香りと鋭い剣のような葉が邪気を祓うとされました。



<鯉のぼりと五月人形>


鯉のぼりは、男児の立身出世を祈って、江戸時代に町人の間で始まりました。


「鯉は竜門の滝をさかのぼって竜に化身する」という中国の登竜門の故事が由来。


一方、武家では男児が生まれると、幟旗(のぼりばた)や吹流しを戸外に立てて世間に知らせる習わしがありました。


現在の鯉のぼりは、これらの風習が合わさったものといわれます。


また、武家では男児の健やかな成長を祈って、戸外に紙で作った兜や人形などを飾っていました。


のちになると、これらを小さく作って屋内に飾るようになり、現在の五月人形になりました。



<柏餅と粽(ちまき)>


柏餅は柏の木は、新芽が出ないと古い葉が落ちないことから、子孫繁栄の縁起をかついで、江戸時代のはじめ頃から食べられていた。


当初は砂糖が貴重なため塩飴で、甘い小豆飴や味噌飴が登場するのは江戸後期になってから。


関西ではもち米を笹の葉や、茅(かや)の葉で包んで蒸した粽が多い。


中国戦国時代の忠臣屈原(くつげん)の命日が5月5日で、綜で供養をしたのが始まりといわれる。



<家族の鯉のぼり>


竿の先端に籠球(かごだま)、矢車(やぐるま)、五色の吹流し、真鯉(まごい)、緋鯉(ひごい)、子鯉を大きさの大きいものを上から順につける。


もともとは黒い真鯉のみだったが、明治時代から真鯉と緋鯉を対で揚げるようになり、青い子鯉がついたのは昭和に入ってから。


女の子を表す赤やオレンジの子鯉もつけて、家族全員を泳がすのが現代流。



<武者人形>


鎧兜の五月人形のほかに、強くたくましく育つことを願って英雄の武者人形を飾る場合も。


子どもの厄の身代わりの意味があるので、兄弟それぞれに飾る。


よくあるのは、鞍馬山の烏天狗を相手に武芸に励んだ「牛若丸」、牛若丸の家来の「弁慶」、足柄山生まれで怪力の持ち主の「金太郎」、魔除けの神の「鍾馗(しょうき)」など。

 

出典: ワイドバラエティー